新川・橋めぐり



阿宗橋
橋の左側が印旛村吉田、右側が八千代市保品です。 印旛村方向から見た橋です。







松保橋



【上】堀ノ内から保品方向をみたところです。
【左】橋の左側が堀ノ内、右側が保品です。
新川の橋でいちばん交通量が少ないと思われる「松保橋」です。

夏の深夜に、真っ暗な道に光る街路灯を探してみると、カブトムシやクワガタが集まっています。







神尾橋


神尾橋上から松保橋方向を見たところです。


堀ノ内から神野方向をみたところです。
大型車も行き交う、広い「千葉・竜ヶ崎線」です。






平戸橋

【左】米本から平戸方向を見たところです。
この写真の右方向に、新川と神崎川の合流地点があります。

新川には、コイ・ギンブナ・ヘラブナ(ゲンゴロウブナ)・ブラックバス・(オオクチバス)・ブルーギル・カルムチー・ヨシノボリ・ウナギ・ドジョウ・タナゴ・モツゴ・クチボソ・ナマズ、などが生息しているようです。
ここ平戸橋周辺も、知る人ぞ知る隠れた名ポイント! 大物では、50cmを超えるブラックバスや、1メートル近いコイも釣れることがあるとか!








逆水橋


逆水橋は、小型車1台分程度の幅しかなく、橋の前後の道もかなり狭いです。
このあたりでは、「いたち」(?)を見かけることがあります。






八千代橋




国道16号線が通る「八千代橋」です。 
【右上】柏方向を見た八千代橋上です。




八千代橋〜城橋間のサイクリングロードには、「休憩所」や「ほたるの里」入口などがあります。







富士美橋





天気のいいときには富士山が見える、自転車・歩行者専用の「富士美橋」です。
【右上】富士美橋上から見た「桑納川」です。
【右下】夕暮れの桑納川!



新川では、 オオヨシキリ・カワラヒワ・ヒバリ・コジュケイ・・・などの野鳥が見られるようです。 カワセミが姿を現すこともあります。







城橋

大型車通行禁止の城橋です。小型車同士なら橋上でのすれちがいも可能です。歩行者・自転車は注意が必要です。








宮内橋

小型車1台分の幅しかない「宮内橋」です。 すぐとなりに水管橋があります。
【左下】橋の左側が萱田、右側が村上です。 周辺には田んぼが広がっています。
【右下】宮内橋よこのサイクリングロード!









ゆらゆら橋

歩行者専用の吊り橋です。 その名のとおり人が歩くとゆらゆらゆれます。 橋の途中に展望台(?)があり、階段を登っていくと周囲を見渡すことができます。 この橋の入口は階段になっていますので、自転車・車イス・ベビーカー等での利用はできません。

毎年ゴールデンウィークの頃に鯉のぼりが川幅いっぱいに泳ぎます。






村上橋


【右上】4月中旬〜下旬頃の村上橋脇のサイクリングロード
【右下】昭和56年5月31日しゅん功








新川大橋

新川大橋

東洋高速






なかよし橋


歩行者・自転車専用のなかよし橋です。






≪ 印旛沼の開削と新川 ≫

八千代市内の中央を南北に流れる新川は、市民の憩いの場として釣りやサイクリングロードなどで親しまれています。江戸時代には平戸川と呼ばれ現在の流れと逆に南から北へ流れ印旛沼へ注いでいました。
 これは江戸時代から幾度となく行われた印旛沼開削工事によって変わりました。まず江戸時代には3度試みられ、最初は享保の改革の時で平戸村の農民源右衛門らによって享保9年(1724)に印旛沼を干拓して新田を起こしたいと幕府に願出、許され幕府からも数千両を借用して実施されましたが、多額の負債の為工事を中止しなければならなかったのです。
 第2回目は安永・天明期(1780〜1786)に行われ、幕府は平戸村から検見川村(現千葉市)まで掘割を掘り、印旛沼の水を放流して新田を起こし、また舟運を開こうと計画し、印旛郡草深新田(現印西市)の名主平左衛門と島田村の名主治郎兵衛の2人に見積りを提出させたのです。その後工事が進んだが、天明6年(1786)に利根川の大洪水により印旛沼はもちろん下利根川流域は海のようになってしまったのです。さらにこの工事の推進者である老中田沼意次が失脚するに及んで、中止せざるを得なくなりました。
 この安永・天明期に作成されたと思われる「下総国印旛沼御普請掘割絵図」が島田の治郎兵衛家に伝わっています。縦135cm、横161cmの和紙に、道・畑・水・干潟・田・堤・山を七色に色分けしてあります。この絵図によって当時の印旛沼周辺のの様子を知ることが出来ます。例えば平戸川(現新川)と花見川は、まだつながっていないことや、印旛沼が現在より大きく平戸まで入りこんでいたことや、東京湾のことを房州浦海と呼んでいたことが判ります。また、この時工事に関する文書、安永9年(1780)の「下総国印旛沼新開大積り帳」、天明3年(1783)の「印旛沼新掘割御普請目論見帳」により、当時の開削計画を知ることが出来るとともに、幕府の大事業に八千代市域の農民が深く関与していたことがうかがえます。このため絵図と文書は八千代市文化財(有形文化財・歴史資料)に指定され保存されています。
 第3回目は天保14年(1843)に幕府は駿河国沼津藩、出羽国庄内藩、因幡国鳥取藩、上総国貝淵藩、筑前国秋月藩の5大名による御手伝普請を命じました。工事の内容は平戸村から検見川村までを5区間に分け、それぞれの大名が責任をもって行いました。しかし、工事が開始されると横戸村(現千葉市)から花島村(現千葉市)にかけては、植物が腐食して出来た土で水分を多く含んだ「化燈土」という軟弱な土質(泥炭層)のため、大変な困難を極めました。このような難工事と老中水野忠邦が天保の改革に失敗して老中を罷免されましたことにより、工事を中止せざるを得なくなりました。
 このようにして、3度の試みがいずれも失敗に終わり、人々の夢が果たせなかったが、明治・大正・昭和と時代が経るに従って整備され、昭和43年3月にすべての工事が完成し、印旛沼放水路として利用されています。そして、この横戸村から花島村までの難工事で死んだ人足達は、無縁仏として藪の中でひっそりと眠っています。














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